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鬼平の提案で無宿者・軽犯罪者の更生施設「人足寄場」が置かれた石川島


 隅田川に架かる佃大橋から石川島を望むことができる。元は隅田川河口に堆積した三角州だ。この島に火付盗賊改役長谷川平蔵の建議により、幕政改革の一環として江戸に流入した無宿者や軽犯罪者を強制的に収容させ、更生を促した人足寄場が設置されたのは、寛政二年(一七九〇)のことだった。
 江戸で無宿者が増加し始めたのは宝暦の頃からだろうか。当初は無宿者は佐渡ヶ島の金鉱へ人足として送り込まれたが、後には浅草にあった無宿者の収容所である非人溜へ送られていた。が、寛政の改革の頃には非人溜でも増加の一方をたどる無宿者を収容しきれなくなり、そこで長谷川平蔵は授産所を兼ねた施設を作ることを提言した。
 寄場人足の小屋は六房に分かれ、罪科の軽重によって各房があてがわれた。人足の逃亡を防ぐため房は牢獄の造りになっていたという。また、老人や病人、婦女は別に各一室を設けて収容した。人足には米つき、縄ないなどの単純労働に従事させた他、各自に手工を営ませ、紙すきや炭団の製造なども行われた。
 当初の収容人数は百三十人程度であっただろうか。が、次第にその数を増し、天保改革以後は無宿者のみならず、江戸払以上追放の者までもが寄場に送られたため、収容者は五百人を超えるに至っている。また、寄場内での規則も厳しく、盗みや博打を行ったものは死罪とする罰則が設けられていた。

 改悛が見られ、身寄りの者から引取が願いだされた人足は、復帰後の営業資本として銭五貫文から七貫文を渡されて出所を許された。しかし、その人数は寄場人足の半数にもならず、また寄場を出たところで、結局は正業に就けずに元の生活へと逆戻りする例が続出したとの話もある。
 その後、寄場は明治時代に突入すると、新政府の鎮台府所属となり、明治三年(一八七〇)になって廃止された。跡地は犯罪者の懲役場へ転用され、明治十年(一八七七)には警視庁監獄署となった。一般の人々からは石川島監獄署と呼ばれ、巣鴨に新たに監獄署が完成した明治二十八年(一八九五)まで存続した。
 ところで、石川島は日本最初の洋式造船所が建設されたところでもある。嘉永六年(一八五三)、幕命を受けた水戸藩によるものだ。安政三年(一八五六)には洋式木造帆船旭日丸、慶応二年(一八六六)には蒸気軍艦千代田形などが造られている。明治維新後は官営による造船所となったが、明治五年(一八七二)に廃止、その跡地の払下げを受けた旧幕臣平野富二が石川島平野造船所を個人で創業させている。そして昭和三十五年(一九六〇)、播磨造船所と合併して石川島播磨重工業設立、昭和三十七(一九六二)には新造船発注高で国内最大の地位を得たが、造船不況の波を受けて昭和五十三年(一九七八)に工場は廃止された。なお、跡地は再開発され、現在は高層マンション群が建ち並んでいる。