将軍の所在が掴めないほどの大混乱に陥ったにも関わらず、略奪はほとんど発生しなかった安政の大地震
安政二年(一八五五)十月、江戸下町の隅田川地域一帯に突然に大地震が生じた。後に安政大地震といわれるマグネチュード6.9、荒川河口を震源地とする直下型大地震だ。倒壊家屋は町家およそ一万四千戸、土蔵およそ千四百棟、また焼失面積は約十四町四方。死者については定かではないが、七千人以上と推定される。家屋倒壊による圧死よりも、同時に発生した火災による被災者のほうが圧倒的多数だったともいわれている。その背景には当時、幕府は財政的に貧窮しており、定火消の一部を廃止していたため防火態勢が不十分だったことも大きく影響していよう。
では、地震発生直後の大名たちはどのような様子であっただろう。安政大地震が記された「視聴草」では、こんな話が残されている。
江戸城へ真っ先に駆けつけた内藤紀伊守は、袴をはくことなく大小を差していた。その姿は大手門の門番さえも誰だかわからなかった。そこで紀伊守は番所で有り合わせの紋付きの裃を借り、どうにか登城した。続いて城中へ駆けつけた若年寄の遠藤但馬守、本多越中守もやはりまた寝間着のままであったとか。
当時の十三代将軍家定についても大奥で余震に耐えていた、あるいは完全に恐慌をきたしていたなど、話は様々だ。また、死去したとの誤報が流れた大名も少なくなかった。災害の被害が幕府の官庁街にあたる御曲輪内であったことを考慮すれば、無理のない話といえるかもしれない。
地震はその後も一か月に渡って余震が続き、有感地震だけでも百回以上を数えている。その間、市中において目立った大規模な略奪などは見られなく、わずか地震発生四日後に二例だけ記録されている。
そのひとつは、深川大島町にある札差商の倉庫が崩れた折、近くの者たちが米などを持ち出そうとしたところ、巡回中の町奉行所の同心らに発見され、その場で取り押さえられたというものだ。
もう一例は、被害をまったく受けることのなかった本所にある旗本屋敷に、地震発生以来、何も口にしていないという五、六人の罹災者が助けを求めにきた。旗本屋敷の者が追い返すと、二百人ほどの人々が抗議に押しかけたという。屋敷の家来たちは応戦しようとしたが、主人たる旗本は「追い返したのが悪かった。屋敷が揺りつぶされ、火で焼かれたと思って彼らの自由にしておけ」と命じたとのことだ。
略奪事件が少なかったのは、当時、略奪や泥棒は反道徳的との意識が強く根づいていたせいだろう。加えて災害復興をめざした救援活動が活発だったことも大きな要因だ。
ところで、この安政大地震後、震源地は常陸鹿島神宮であり、鯰が悪さをしたためだとの話が流布した。そこで地震鯰絵と称される鯰の彩色戯画が流行したという。構図としては、被災者たちが鯰を懲らしめているものが多かったそうだ。