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門前町音羽とともに栄えた、桂昌院のために建てられた護国寺


 綱吉が五代将軍の座に就いた翌年天和元年(一六八一)、綱吉の生母桂昌院の発願により護国寺が創建された。綱吉三十六歳、桂昌院五十五歳のときだ。開山には上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当大聖護国寺の住職亮賢が招かれ、幕府領地であった高田薬園を白山に移し、その跡地に堂塔が建立された。寺領三百石を賜り、天和二年(一六八二)に如意輪観音を本尊とする本堂が完成、翌天和三年(一六八三)には桂昌院の初の参詣があり、綱吉もしばしば参詣したといわれている。
 この護国寺と深い関係を持つのが、やはり将軍母子の帰依を受けて隆盛を極めたことのある護持院だ。護持院は元々は現在の神田錦町にあったが、享保二年(一七一七)の大火で焼失した際、幕府は再興を認めず、護国寺と統合させている。観音堂を護国寺に、本坊を護持院とし、護持院の住職が護国寺を兼ねることになった。その後、明治維新を迎えると護持院は廃寺となり、護持院と称していた部分の堂宇は護国寺分に帰すことになった。
 さて、護国寺の門前町は「京都の清水坂に似せてほしい」との桂昌院の注文を受け、門前が九丁に分けられ、桂昌院のお気に入りであった奥女中の音羽に与えられることになった。もともと一帯は門前の青柳町、桜木町とともに護国寺領三か町と呼ばれており、音羽が拝領したのは元禄十年(一六九七)のことだ。地名の由来になったのはいうまでもない。なお、昭和四十二年(一九六七)の住居表示で音羽に吸収された東青柳町、西青柳町もやはり奥女中青柳、桜木が拝領した地である。


 音羽町はやがて門前町として繁栄していった。護国寺は将軍家の祈願寺となったが、庶民の町のほうは茶店や遊女屋で賑わう岡場所としての発展を見せる。岡場所とは、公許の遊里である新吉原に対し、無許可で営業する私娼窟を称した言葉だ。幕府は公娼保護の政策上、私娼売女の摘発を繰り返してはいたものの、岡場所はおよそ百六十にも及び、摘発しきれるものでもなかった。
 それには音羽は護国寺、深川は富岡八幡宮、根津は根津権現の門前町であったように、岡場所のほとんどが寺社地の門前町において発達していたこととも無関係ではない。岡場所はそもそもは参詣人相手の茶屋が私娼窟へ発展したものであり、寺社の門前町の所管は町奉行所ではなく、寺社奉行であったからだ。売春行為を行っていることを把握していても、町方役人はそれを取り締まる権限を担ってはいなかった。逆にいえば、門前町は町奉行所が介入できないゆえ、私娼が集まったといえなくもない。また、同じ理由にて門前町には盗人が逃げ込んだり、博打の開帳場ともなっていたという。
 が、岡場所の行きすぎた発展や私娼の増加は性病のまん延をもたらし、門前町の風紀の乱れはさすがに幕府を刺激した。そこで幕府は延享二年(一七四五)に権限を町奉行所に移管し、取締りの強化にあたっている。