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現在の中央区で生まれ、幕府の命令によって台東区へ移動となった公認遊郭「吉原」




 享保三年(一七一八)、江戸で最初の人口調査が行われたところ、男約三十九万人、女約十四万人、合計約五十三万人。江戸の町づくりが進み、全国各地より江戸へ人々が移住するようになったが、大半は男であり、その傾向は天保期まで続いた。しかも先の数字は町方だけのもので、諸大名においても参勤交代の際、各大名は妻子を江戸に置いて住んだものの、家臣は単身赴任であったため、やはり江戸には男が多く集まったといえる。
 そんな江戸において、女の町が存在した。そう、遊郭として名を馳せた吉原だ。慶長(一五六九~一六一四)の頃、江戸には麹町と鎌倉河岸に十四、五軒、大橋内柳町に二十軒余の遊女屋があったが、慶長十七年(一六一二)、遊女屋の主人を代表して庄司甚右衛文が幕府に江戸に一ヶ所公認の遊郭の許可を願い出た。
「京都や大阪、駿府、その他全て繁華な都市には遊郭が公許されているが、江戸には公認の遊郭がなく、所々に分散しているのは江戸のためによくないことだ」
 以上の理由による。そこで幕府は元和三年(一六一七)、吉原以外での遊女屋営業を禁止しするなど五項目の条件を付し、葺屋町の東側一帯に遊郭開設の許可を与えた。そして元和四年(一六一八)に遊郭が完成、葭が生い茂る野原に造られたことより葭原と命名され、後に吉原と改められた。


 吉原が江戸で唯一、公認された遊郭と認められて以来、吉原以外で営業する遊女は隠売女と呼ばれ、常に取締りの対象となった。しかも吉原の遊女屋には、隠売女を置く店の摘発権を与えられていた。実際、江戸中期以降、吉原の他にも岡場所と呼ばれる隠売女を抱えた遊女の町が江戸の各所で繁盛していたが、多くが廃止されるに至っている。
 さて、江戸が繁栄するようになると、江戸城に近かった吉原が江戸の中心地となるのを避けるため、明暦二年(一六五七)、幕府は吉原に浅草日本堤への移転を命じた。旧地の葺屋町は元吉原と呼ばれ、翌年移転を完了し、再び営業が開始された新たな遊女町は新吉原と名付けられ、それまで禁止されていた夜間営業も許されることになった。以後、この新吉原は、売春禁止法が施行される昭和三十三年(一九五八)までおよそ三百年もの間、存続した。
 新吉原へ通うには、隅田川を猪牙船で上るか、駕籠や馬で行く手段、あるいは日本堤を歩いていく方法があった。四囲を遊女がおはぐろを捨て、そのために水が黒く濁ったことから名付けられた鉄漿溝に囲まれ、別世界を築いていた吉原は、時代によって顧客層も変化していった。元吉原および新吉原初期には武士、元禄期には豪商、享保期には特権商人、そして宝暦以降になって一般町人たちも足を運ぶようになった。宮本武蔵もしばしば元吉原へ通い、島原の乱へは吉原の遊郭から出陣したとの逸話も残されている。