飯盛女の評価が低かったため、江戸四宿の中で最も静かだった板橋宿
家康が江戸に幕府を開いた慶長八年(一六〇三)、五街道制定にあわせて中山道に首駅となる板橋宿が置かれることになった。江戸より二里半(約十キロ)、宿の長さはおよそ二十町九間(約二キロ)に渡り、宿場内は入口から平尾宿、中宿、上宿に分かれ、中宿と上宿との間に流れる石神井川に架かる小さな板の橋より板橋宿との名が付けられた。
宿場の中心地をなしていた中宿には、問屋場や本陣などの旅籠が建ち並び、旅籠は飯盛女を置く飯盛旅籠と平旅籠とに分類された。また、旅行や物資の運搬には幕府が定めた人足や馬数の他、荷物の重量も定められており、その規定は板橋の南東に置かれた高札場に高札として掲げられ、問屋場に併設された貫目改所にて検査が行われていた。幕府が定めた規定より重い荷物は過貫目と呼ばれ、二個分の料金を払わねばならなかった。
上宿には商人宿や馬喰宿が密集し、宿のはずれには縁切榎の大木が今でも三代目となって残されており、その名称から婿入りや嫁入りの際にはこの木下を通るのを避けたという。孝明天皇の妹、和宮が将軍徳川家茂に降嫁することになり、江戸への下向における行列では、縁切榎は木の根元からこもで包み隠されたとの話が伝え残されている。
寛永十二年(一六三五)、参勤交代が始ってからは大名三十家が往復し、また東海道に比べ川が少ないことから中山道を通る一般の旅人も多く、宿場も繁盛したようだ。板橋宿場に限っては、幕府による宿場の保護、助成政策であった問屋給米や継飛脚給米などが給付されておらず、経済的にも潤っていた宿場だったと推測される。
とはいえ、加賀百万石の前田家、高田十五万石の榊原が通る以外には十万石程度、もしくはそれ以下の大名が通過していたにすぎず、本陣や脇本陣も備えた宿場ではあったものの、品川や千住、内藤新宿のような賑やかさを誇ることはなかった。
「旅送り橋より川が人がふえ」
この川柳は、江戸庶民にとって遊び場には品川の宿場のほうが賑やかで、板橋の宿場は女郎も安っぽく、面白みに欠けたことの意を含んでいる。
さて、板橋宿では、品川宿に次ぐ人数(幕府より公許されたのは百五十人)の飯盛女が旅籠屋に置かれていた。護国寺門前にあった音羽の岡場所の賑わいが板橋にまで及んだようだ。「岡場所遊郭考」によると、天保十三(一八四二)から遊女が六畳から八畳ほどの板間であった見世に並び、顔見世を行い道行く客を誘っていたという。板橋と千住では吉原にならって顔見世をしたが、品川、内藤新宿では全員が見世に出るわけではなく、三人ずつ交代による顔見世が行われたそうだ。ただし、安永三年(一七七四)の洒落本「婦美車紫鹿子」では遊女が九つの等級に分けられているが、板橋宿は中品下生、つまり中の下に評価されている。